・・・されど役者的妹尾blog

太く拡げよう僕の細道   since.2006.4.14
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オカンと俺の備忘録。



忙しなく岡山(実家)と東京を行ったり来たり。

先だっての番組でも話をさせていただいたんですがね。

私は公の場では楽しくて皆さんがハッピーになること限定でおしゃべりや文章を出していこうと決めておりました。

以前は飼っていた犬を胸に抱きながら殺す羽目になった、泣きまくったよって話を書いたりもしましたが、ここ数年はしっかりと心に決めているつもりでした。


ですが、今回はちょっと自分のために、今後のために書き遺しておきたいと思ったことがありまして。

完全に自分の中だけの話ですがブログにします。

そして、まだ経験されてない方の、もしかしたら少しでもお役に立てるなら<その時>のために。


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世間ではよくある話です。

私を(大きく)産んで育ててくれた母が壊れてしまったんですね。

アルツハイマーでした。

症状が見え始めてからはもう10年ほど経つんですが、ここ数年ではもうどうしようもないくらい進行してしまい、今夏からは更に加速してしまいまして。

離れて暮らす私は何もすることが出来ず、傍観しているだけでした。

ちょいちょい口出ししたり病院の世話をしたり。

何とかなると思っていたんですね。

つまり良くなる…もしくはこのまま普通に暮らせると。

甘かったです。

まず、側で介護をしていた父親に限界が訪れました。

二人、昭和初期に生まれた老夫婦です。

母を車いすに乗せたり入浴させたり、トイレの世話から食事まで、体力自慢の父でしたが限界がありました。

実は何度もケアしてもらえる体制を整えようとしましたが、まだまだ世話は出来ると頑張っていたのです。

母はプライドの高い女性です。

というか、この時代の生まれの方は皆さん同じようですが、



「私はな、頭だけはしっかりしてる。 先生も太鼓判押してくれてるわ。 
奥さんがボケとったら世の中の人は皆痴呆症やわって言われてるんや!」


京都の女で、周囲の反対を押し切り駆け落ちで岡山に嫁いできましたので誰も助けてくれる人がいません。

ずいぶんな苦労を重ね、本当に寝食を忘れて働き続けたようです。

戦争で飯を食えない時代を過ごした人ですので根性は据わってます。

父と二人、一文無しから小さな会社を作り、トラックの買えない二人はリヤカーを押しながら商売を始めました。



「会社始めた頃はお茶碗も買うことが出来んで、ガス釜のフタにご飯をよそって二人で食べたもんよ! それが私ら爪に火を灯して頑張ったからアンタら二人とも東京に行かせてやれたんや!」



が口癖でした。

父と一緒に激動の昭和を戦ってきた、守り続けてきた、という自負がものすごいんですね。

くどいようですがそりゃ本当によく働く女性でしたから。

厳しいし感情的だし、口は達者だし…でも底抜けに明るい天然なので商売に向いていたんでしょうね。

ガキの頃は毎日朝から晩まであまりにも遠慮無くぶん殴られるので、密かに



「オカンは人間じゃねえ、ありゃあメスゴリラじゃ!」



と兄弟二人罵っていたものです。



その母もここ数年足腰が弱まり、杖をついて歩くようになりました。

そこからは一気に進行したように思います。

一度転んで背骨を折りました。

すると数ヶ月もしないうちに車いす生活です。

アルツハイマーの症状はどんどん加速していきます。

表情からは見分けがつきにくいんですね。

普通の目、メスゴリラが怒るいつもの表情と口元で10秒前のことを忘れています。

しかも新鮮に、初めて聞くように同じことを質問してきます。


「この子、名前なんて言うん?」

「幸ノ助。」

「へー、可愛いなあ。…なあ、名前教えて!」

「幸ノ助。」

「賢そうな顔した犬やなあ、名前呼びたいねん、教えてくれるか?」

「幸ノ助。」



最近は父親のことも忘れる瞬間があります。



「この方がな、私の会社を守って下さってるんやて。」



一瞬で元に戻ったり、余所に行ってしまったり。

全て彼女の頭の中では本気で真実なんですね。

いろんな見知らぬ人が家の中を徘徊したり、風呂の中に隠れていたりアルソックをかいくぐって家に入ってくる人もいる。

冷蔵庫からは毎日いろんなものが盗まれて、タンスの中も。




「あんたぁ(私)、隣の部屋の人がな、私を庇ってくれるんよ。 お父さんが大きい声で私を怒鳴るからな、『ええ加減にしとき! そんなにがみがみ怒鳴ったら奥さん怖がるやろ。』って。優しい人もいてるわ。」


勿論実家には父の他には誰も住んでませんので妄想なんですがね、母にとっては目に見えている事実なんですね。

どこかのケアハウスに入った方がいいって言う会話を聞いていて、混乱しているようです。



「そうかー、そらよかったな。 またすぐそっちに帰るからちょっと待っててな。」



私、最初からこういう優しい言葉が返せたわけではありません。

馬鹿なことを言っている母に怒声を浴びせました。

しっかりしろよ、意味の分からないことを言うな!のオンパレードです。



「あんたあ、お母さんな、もう訳が分からんで死んでしまいたいねん…どうしよー…。」


って電話が増えた時も、


「ええ加減にさらせよ! そんなことばっかり言っとったら本気で罰が当たって死んでまうぞ! 考えてものを言え!」


何も考えず罵詈雑言浴びせていました。




ある時。

今のままではダメだと、緊急性を要することが起こりました。

介護をしていた父の<心>にも限界が訪れたんです。

身体だけじゃなくて。

何か策を講じなければ事件に発展してしまいます、間違いなく的な。


本人不在のまま、勝手にいろんな形を模索しはじめました。

医者との話や施設との折衝…あらゆるプロの方の意見や専門医、はたまた諸先輩のお話を伺って。



そして決めました。

母を転居させます。

そうしなきゃ残された者も崩壊する、だからこれしか道はないと言い聞かせて準備しました。

良いことだ、母も皆も救われる、そう信じて。

本人は何も知らないまま。




母にとってその日は突然やってきました。

父、母、私、弟、久々に家族揃って晩飯を食いました。

私がステーキを焼いて。

そして他愛も無い話をし、普通に眠りました。

そう、特別な空気は一切出さないで。



翌朝、いつものように母はトーストを食べてコーヒーを飲み、歯を磨いてました。

車いす姿を除けば実家に帰ると見られるいつもの光景です。

リビングに戻ってきたところで私が口を開きました。



「さ、そろそろタクシー呼ぼうか。」


連れ出します。

母はもう二度とこの家には戻りません。

暮らし納め、見納めです。

特別な意識をさせたら柱にしがみついてでも動かないでしょう。



「何? どこへ行くん?」


「ほら、前から言ってた所。 オカンも一回見学に行ったろ? わあ、綺麗なとこやねーって言ってたじゃん。 あそこよ。」




超普通に喋ります。


しかし母の顔はいきなり曇ります。



「イヤや、まだそんなん行かんで! …私まだお化粧もしてないし部屋着のままやし…靴下も履いてへんもん!」



見学に行ったのは事実ですが、良からぬ雰囲気を察してか行ったことがあるという記憶を呼び出せません。

だんだん泣き声になり、辛そうな嗚咽に変わっていきます。

辛い。

けど、仕方が無い、これが最良なのだと再度言い聞かせます。



「ほら、靴下を履きんさい。」



と、父が車いすに乗った母に履かせてやります。

すると目先が変わるからか、



「もう、へたくそやなあ、自分で履くからええわ。」



壊れていることが助かると感じる時はこういうときです。

涙は止まり、思うように動かない指でソックスを一生懸命履いています。

車いすを押して静かに玄関を出ます。

振り返ることはありません、すぐに戻ると思っているんですから。

私と弟は着替えの詰まったダンボール、細々した日用品を積んだ家の車で後に続きます。

よいしょ!と母を持ち上げてタクシーに乗せる時、とても不安そうな顔で



「あんた、一緒に来てな…。」


「うん、すぐ後ろをぴったりと着いていくから大丈夫よ。」



自分の置かれている立場や、状態はさっぱり分かっていないと思いますが、不安なことだけはヒシと感じているようです。

当たり前ですね…。



30分ほどで施設に到着し、用意されていた新しい部屋に入りました。

この施設は完成してまだ一年経っていない、とても綺麗な建物です。

ラウンジにはピアノが置かれ、来客用のスペースも日が燦々と当たり、フカフカの絨毯が敷き詰めてあります。

早速お世話をして下さる方が代わる代わる挨拶に出向いてくれました。

母は何のことか分からないようでキョトンとしています。


「なんかねー、朝起きたらいきなり連れてこられてねー。 びっくりしてるんですよ-。 何なんでしょうねー!」


と来る人来る人に笑いながら説明をしています。



「このような施設にいらっしゃる方で、ご自分で納得されてくる方はほぼいません。
じゃあね! と手を振って明るくお帰りになることは難しいです。お辛いでしょうが何も言わずそっとお帰りいただくのが賢明かと。」



このような説明は何カ所からも聞いていましたし、諸先輩方にも聞いておりました。

ですからそのように頑張るのみです。

母の部屋のセッティングを終え、普通の時間を過ごした後晩飯の時間がやってきました。

そのときに私たち三人は消えることにしています。

しかし、私たちが乗ろうとするエレベーターの、すぐ脇のラウンジで食事が始まりました。

帰宅する姿が丸見えです。

必ず呼び止められます、一緒に帰りたいと。

私は何事もなかったかのように母の隣に立ち、



「うっわー、オカン、美味しそうな食事やなー! 豪華やな-!」



オカンの顔のすぐ近くに私の顔を寄せました。

その間に後ろ手に合図を送り、二人をエレベーターに乗せます。


ヘルパーさんがお茶を運んでくれました。

母はそのヘルパーさんに、



「私、ちょっと部屋に戻らなアカンのです。 忘れ物して…お父さんにちょっとアレしてもらおうって…。えっと言うのを忘れてたことがあって…。」



怯えた目、泣き出しそうなほど不安表情、ものすごい恐怖を感じています。



「妹尾さん、このお時間で食事をしていただかないとこのあとすぐにお薬も飲まなきゃならないんでね、用事は後にしてもらえますか?」


ヘルパーさんがストップをかけました。

その瞬間ですね、母はしっかりしていた昔の顔に戻りました。

そして、顔を近づけている私の目をじっと見詰め、か細い声を絞り出してこう言いました。



「…あんたぁ、何で私、こんな酷い仕打ちをされなアカンの?」



目に涙をためて…赤ん坊のような、助けて欲しくてたまらない、崩れ落ちてしまいそうな目。

実の息子に懇願してます。

…なんて酷い。

どんだけむごたらしいのか。



抱きしめて、



「オカン、ごめんな、ウソウソ。 な、帰ろ、うん、帰ろ!」



と喉から飛び出しそうでした。



でもでも、そうしませんでした。

また元通り、違う意味での苦しみが待っているのは知っていますから。

おそらくもっと酷い未来が待っているんです。

それが正解か不正解かなんて私には分かりません。

子供として、人として、そして心情的には百万%不正解です。



一緒に暮らしてやることも出来ない、親に対して随分な仕打ちだと。

罰当たりです。

汚物まみれになってっでも朝から夜まで世話をしてやればいいのに。

生活があるから、仕事があるから、家族があるから一緒にいてやれない?

介護できない?

産んでくれた人なのに?


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この日の昼間、こんな会話があったのを思い出しました。



「オカン…俺な、あんたの息子よ。 貴方が俺を産んでくれたんよ。」



暫し私を見つめ、クククと軽やかな笑顔になりこう言いました。



「またまた、この人面白いこと言うなあ、そんな訳ないやん。 傑作やな!(ゲラゲラゲラ)何を言うてんねん!!
…で、あなたは自営業をされているん? 大変やなあー、立派やなー、頑張ってねぇ。」



1日のうちに起こったパニックが大きすぎて、過去最大の混乱が起こっているようでした。

流石に子供の記憶を失ったことは今までに一度も無かったので。

これね、



「ここまで壊れてしまったんだから、もう仕方が無い。 選択肢は間違っていない。」



っていう免罪符に思えてきたりしてね…。

クソみたいな自己弁護だろうね。

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家に戻って。

賑やかで煩すぎる母の声はどこからも聞こえて来ず。

ぽっかりと大きな穴の空いたような空間で食事の味も分からずビールも喉を通らない。


早々に寝ようと準備するものの、母からの携帯電話が鳴り響きます。

私、弟、父、実家…順番に何度も何度も。

生まれて80年以上一人暮らしの経験の無い母です。

私たちの声を聞かせることは酷だろうと判断し、また施設の方の勧めもあり、電話に出ないでそっと息を潜めます。

心を鬼にしよう、鬼になろう、オカンの方が何倍も辛いんだから。

留守番電話に入った母の声を後で聞くのですが、胸が痛くて言葉になりません。



願わくば…今のこの辛さも忘れてしまいますように…。

オカン、ごめんな、こんなんしか出来なくて。

心から感謝してるのに。

楽ちんなところに母を置き去りにする愚息。

「杜子春」にはなれなかった馬鹿息子です。

メスゴリラでよかったんだけどなー。

オカンの残りの人生、俺のことが分からんでも最大の感謝で見詰めてあげたいんです。

遅いっちゅうの。

自分の馬鹿さと戒めと、ずっと反省しろっていう…そして有り難うを忘れるなって言う、そんな備忘録にします。

実家家族4人2017-10-01












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